心つながるやるらぎの宿 熔岩流とハナコの里
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名水いわて

全国名水百選

金沢清水 座頭清水湧水群

岩手から二つ、岩泉町の龍泉洞地底湖の水とともに選ばれた全国名水百選の一つ。岩手山北麓金沢地区に湧出する7箇所の泉からなる湧水群だ。座頭清水はその主泉で毎分40トンの水量を誇る。水質は硬度がやや高いものの水道水の基準をすべてクリアしており、特にミネラル分が多く、うまい水の条件も兼ね備えている。水温は四季を通じて12度前後とほぼ一定で水量も安定してうるため、岩手県内水面水産技術センターが淡水魚の増殖、試験研究に使っている。

ブナ、ミズナラなど鬱蒼とした水源涵養林の中にある湧き口。地底から噴煙のように盛り上がる大量の清水。羽衣美女の群舞さながらに揺れるセリやクレソン。木漏れ日を受けて緑色に光る水面を見ていると、太古から続く時の流れを見ているような錯覚に襲われる。座頭(盲)にされた鬼がこの水で洗い清めたら目が見えるようになったという言い伝えがある一方で、七つの頭を持つ蛇龍が地表に頭を出したところだという言い伝えから“蛇頭清水”だとする説もあるが、いずれもその神秘性ゆえの命名であろう。  点在する湧水はいずれも豊富な水量を誇り、それぞれ簡易水道の水源、淡水魚の洋食などに利用されるほか、松川を横断して農業用水としても利用されている。源流部のこの地域の川水はすいでんには適さないが、湧水を直に使えば、特に春先は温かい水を使える。先人の知恵が光る灌漑事業が大正時代初期に行われている。

岩手名水20選

長者屋敷清水 長者清水湧水群

奥羽山系北部支脈の前森山麓の湧水で、通称「長者屋敷」といわれる古代遺跡の周辺に数箇所から湧く泉の総称である。 主泉長者清水(太刀清水)のほか蔵滝、一ノ蔵、二ノ蔵など八つの湧き口がある。いずれも巨岩の根元から湧く清水はうまい水の要件を見事にクリアした軟水で評判を聞き、水を汲みに来る人の列が絶えない。
主泉周辺には地区の氏神長嶺神社があり、旧松尾村の村立公園として整備された。
今は地区の総代を中心に地区民の熱心な清掃活動などにより行き届いた管理がされている。
活断層が走る上手西方の高嶺沢川となって東に流れ、長者屋敷の湧水群を呑んだのち、工業用水として大量に消費される。 さりに農業用水としても使われ、残りが一級河川長川に注ぐ。
長者屋敷は、古代アイヌのチャシとの説もある。縄文から平安時代に至る重層の遺構が確認されている。県内でも有数の規模を誇る遺跡として知られるだけに、いくつかの伝説が今に伝わる。
その一つは、東征軍 坂上田村麻呂にまつわる征服者と被征服者の伝説、いまひとつは民間伝承としての長者伝説である。長者清水を太刀清水とも呼ぶのは坂上田村麻呂が血に染めの節刀を清めたとの伝説による。 また水分神が祀られるお釜は、盛岡の豪農神子田家の姫「岩花」とともにさらわれた家宝の一つだったとされる。花嫁を迎える地元の長者が豆俵で橋を架けたという民間伝承もある。

長者屋敷は、古代の遺跡としては県内でも有数の遺跡として知られているが、地域の人々に知られるようになったのは最近のことである。 
中松尾の藤田代次郎さんの話によれば昭和の初め頃、田頭の高橋三平さんというところの奥さんでオキさんという人が長者清水を発見したという。(昭和3年6月、三平オキさんが草刈中に水を飲もうとして畠山某が奉納した金属製の剣を発見し、長者の神様を発見したと話題になったという話も伝わる。)これが目に効くということでたちまち評判になり、県内各地から参拝者が来るほどの流行神となった。 昭和4年、地域の人たちはそれまで鷲連寺の近く下川舘の山王堂にあった、山王権現神社をここに移転し長者清水神、倉瀧大明神を合祀した。以来、盛んな頃は花輪線に臨時列車がでるほどの賑わいだったという。その頃からであろうか巨岩とセットで八つほどある湧き口にそれぞれ水神を祭り大事にしてきたようだ。

昭和5年に建てられた碑には一ノ蔵山神、水分(みくまり)神など八つの水神などが刻まれており、これと符合する数の湧口はあるがそのほとんどが荒れていて湧口に標示がない。
一ノ蔵の山神、お釜の水分、主泉と思われる長者清水神か蔵滝大明神などは推測できるものの、それ以外はどの泉にどの神を祀ったかは定かではない。


清水伝説

金沢清水 編

蛇頭清水

古老の話では、座頭清水または盲(目倉)清水とも呼ばれる。この清水の本当の名は「蛇頭清水」と呼ぶのが正しいという。座頭清水も蛇頭清水も、この土地の訛で言えば「ジャドスズ」となるが、ジャドは「盲目」の方言でもある。「蛇頭」がいつのころからか「座頭」となり座頭が盲人であることから『盲』になったという。

その古老の話によると、大昔、岩手山の中腹に「蛇龍の滝」という滝があった。この滝には「滝の主」蛇龍の王が住んでいた。ある時山麓に出てみたくなり地下をくぐって山麓を降りはじめた。だいぶ下ったところで、蛇龍の王はこの辺はどこだろうと地下から頭を出してみた。この頭を出したところが今の座頭清水(盲清水)の場所であったという。そこで「蛇が頭を出したところ」ということで「蛇頭」と呼んだのだという。 
今でも岩手山の中腹に滝があり、その滝の清水がそこから地下に潜り、座頭清水のところまで地表には流れていないという。※ちなみに、この清水を源流とする下流の川は南寄木付近では「ざる川」とよばれているがこれも「蛇龍川」(蛇流川)が訛ったものだという。

座頭清水(盲清水)

大昔、岩手山麓には鬼が住んでおり里に下りて来ては村人を悩ませていた。
ある日、村人たちは鬼が来たら逃げないで皆で「灰の飛礫」を鬼の顔めがけて投げつけようと相談し、みんなで灰の飛礫をつくり鬼の来るのを待ち伏せた。
そこに鬼がいつものように里に下りて来た。村人はそれっとばかりに一斉に鬼の顔めがけて灰の飛礫を投げつけたので、さすがの鬼も灰のため目が見えなくなり、その痛さに泣き泣き逃げ出したそして今の座頭清水の付近で苦しんでいたところ、清水の神が現れ、鬼にその訳をただした。
聞き終わった水神は「過去の悪事を悔い改めるなら、その目を治してやろう」と言い、「そばの湧水で目を洗うがよい」と教えて立ち去ったという。
鬼は神様のいうとおりにその清水で目を洗った。するとたちまち痛みが取れて、見えなかった目もみえるようになった。大変喜んだ鬼は、その後は里の人々のために尽したという。
以来、村の人々はこの泉をジャド(盲人)(座頭)が治る清水「座頭清水」と呼び霊場にしたという。

長者屋敷清水 編

太刀清水とお釜

奈良朝時代、長者屋敷はこの地を治める高丸悪路の一子登鬼盛の居城で登鬼盛長者屋敷と呼ばれ、方々から集めた財宝を貯える場所でもあった。中野村大宮(今の本宮)に代々続く百姓、神子田多賀康なる者があり、姉岩花、妹つる恵という二人の愛娘がいた。
ある時、登鬼盛が屋敷に暴れこみ家宝のお釜を奪い、薬草摘みに山野に入っていた姉妹の岩花を捕え、奪ったお釜とともに登鬼盛長者屋敷に幽閉した。 岩花は調薬、産婆の術を良くし病気に悩む者を助け、いたわるなど近所の敬愛の的であった。 
神子田家三つの家宝の一つであるお釜は、薬草を煎じる医療用具であり炊事の利器でもあった。囚われの身となった岩花は、長者屋敷の木戸(入口)の岩の上に自らの目印としてお釜を載せて助けを求めた。嘆き悲しむ娘を思い涙にくれる神子田扇から、事の仔細を聞いたのは東征中の制夷大将軍坂上田村麻呂は神子田扇の協力を得て戦備を整え、霧山岳に東奥の大王大武丸を達谷窟に悪路王を討ち、北進して残党が住む登鬼盛長者屋敷を攻め落とし首領の首をはねた。 かくして岩花は無事救出され大武丸、悪路王、登鬼盛などはことごとく討ち取られ一族は全滅したという。  

長者屋敷は岩花がお釜とともに幽閉された場所であることから“お釜霊場”とも呼ばれ、血染めの太刀を濯いだ長者清水は、又の名を“太刀清水”という、とも伝える。  今に伝わる“お釜”は、長者屋敷の入り口であり一ノ蔵の湧口に続く道端にある石臼様のものであるが、これは岩花が老いたお釜が長い年月を経て岩穴になり、満々と水を湛えるようになったものだという。 その量は水桶八杯分になり、農繁期や日照り続きのときにこの水をくみ上げれば雨になり、掻き回せば大雨になったという。
以来人々はここに水分(みくまり)神を祀り崇めてきたようだ。

豆渡り(豆渡り長者)

長者屋敷周辺の大量の湧水は、ほどなく高嶺沢川に合流して大きな流れとなり、西の峰竜が森を水源として東にながれる この地域随一の川、長川に注ぐ。
長者屋敷に行くためには、どうしてもこの長川を渡らなければならなかった。

その昔 松尾と平舘にいずれ劣らぬ長者がいた。
松尾の長者は穀持ちで西の長者、平舘の長者は酒樽持ちで東の長者といった。西の長者は後継ぎ息子に東の長者の娘を嫁に迎えることになった。西の長者の屋敷は要害の地で、木戸口前を長川が流れていたが、外堀代わりのため橋が架けられていなかった。村人たちは婚礼間近になっても橋が架からないことに不安の眼差しを向けていた。ところが当日になって屈強な若者たちが現れ、屋敷から運び出した豆俵を長川めがけて次々に投げ込んだ。なんと大量の豆俵によって瞬く間に橋が架かってしまったのだ。花嫁の長い行列は無事に長川を渡り、屋敷の中に消えたという。さすがはおらほの長者様と人々は拍手喝采、そのことがあってからは長川の渡りを“豆渡り”、長者様を“豆渡り長者”と呼ぶようになったと伝える。
( 「豆渡り」は住民の屋号「古川氏」としても残る)


湖沼伝説

アセ沼と八郎太郎

八郎太郎は(旧)松尾村野駄字砂田の屋号田中という家に生まれる。長じてマンダの皮剥ぎを業とする。ある時仲間の青年二人と前森に行き、小川のほとりに小屋を掛けて商売のマンダ剥ぎをはじめた。 炊事当番になったある日、米とぎに汲んだ水にまぎれて岩魚が3匹。しめしめと味噌田楽にして友を待ったが、その香りのあまりの良さに自分の分一匹ならとぺロリ。しかしその味の素晴らしさに耐えかね、残りもペロリ。しばらくするとのどが痛いほどカラカラになり、マゲワッパに汲んだ水を飲み干したが渇きは収まらない。小川にひれ伏して直に流れを口にしたが、それでも収まらない。詮方なく小川をさかのぼり水源の沼のほとりにたれ伏して、これをことごとく飲み干した。するとたちまち体が膨れ上がり、巨大な化け物と化した。そこへ仲間が帰ってびっくり仰天の大騒動となる。事の仔細を話した八郎太郎は「おれはもう人間の仲間には入れない。家族へ伝えてくれ」と友に告げる。逃げるようにして山を降りる二人を見ながら、八郎太郎は苦難の行く末を予感する。何しろ少しばかりの水ではどうにもならない。沼を作ろうと小山を背負い鬼清水(オニスズ)のあたりで小川をせき止めてみたが、岩手山の田村大明神の怒りをこうむり果たせなかった。場所を移して試みては失敗ということを繰り返し、いよいよ苦難の旅が始まるのである。その後、修験僧南祖坊なども登場し奥入瀬、十和田湖、田沢湖、八郎潟と舞台が廻り、辰子姫まで登場する物語りとなる。

ちなみに、飲み干した沼はアセ沼で、流れをせき止めようと前森で背負って鬼清水で下した小山が八郎森だという。アセ沼は花々が咲き誇る湿原の中の大きな沼出会ったというが、今はほとんど水がなく特に近年笹がくいこみあじめて浅い沼とさえ言えないほど荒れている。
アセ沼川は傾斜のある沢川だが、密林の中にしては比較的広く開けた渓流で魚の遡上を阻むほどの滝もない。今も岩魚の宝庫で、これがまた形もよく美味この上ないのである。

御護沼(女護沼)の主

松川温泉にあるゴゴ沼の主は、遠野邑主の南部弥六郎の姫君だと伝えられる。弥六郎は、はじめ八戸に住み八戸氏を名乗ったが、南部氏に属するや南部の姓を与えられ遠野に移った。外様として扱われ盛岡に上屋敷を置いた。
ある年平舘に遊び、赤川のキャクラ淵(替鞍淵:鞍が沈んでいるという)で暫く休んだ折、従者に潜りの上手い者がいたので漁を命じた。そのものが胡麻鰻を見つけてヤスで突いて捕らえた。これは珍しいというので奥方と共に召し上がったが、奥方はこの時妊娠中であった。後日お生まれになった姫君の額には不思議にもヤスで突いたような跡があった。これを取ろうとあらゆる手を尽くしたがその効なかった。
姫君長じて17歳になったころ、ある物識りから松川温泉に湯治すれば治ると聞き、駕籠かき数人を使い松川温泉目指し旅立たせた。駕籠が御護沼付近にさしかかるや、姫君が小用をたしたいというので駕籠を留めさせた。(今この場所を駕籠立場という)駕籠から降り立った姫君がかの沼のほとりに行くかと見ているうちに、忽ち身を躍らして沼に飛び込み沈んでしまった。駕籠かきどもは驚き顔を見合せてしばし呆然としていたが、やがて皆が力を合わせて沼の畔を掘り割り、水を干して姫を助け出そうとしたところ沼から忽然と蛇が現れて言うには、「妾が母の胎内にある時、妾の母がこの沼の主となるべき胡麻鰻を食べてしまった。その因果により代わりとして妾がこの沼に入り主とならねばなりません。湯治したいというのは口実で、実はこの沼に来たかったのです。あなた方は早く館に帰ってこのことを知らせて下さい。と言って消えてしまった。駕籠かき等は詮方なく館に帰ったという。御護沼には草の生えた浮島が漂っていたが、里人はこれを姫のカツラとカンザシだと伝えている。

蟇沼の主

鬱蒼とした樹林に囲まれた沼の畔にある古寺に和尚夫婦と、長い黒髪につぶらな瞳の美しい娘がいた。すくすく育った娘は早や16歳。内々に婿殿を探して婚約の日を楽しみにしていた夫婦でしたが、初夏の風が吹き緑陰深まるころになり、口数も少なくなり自室に閉じこもって物思いにふける娘の異常に気づく。それとなく娘の挙動にも気を配り探ってみるが何故なのか解らない。
巫女に占ってもらっても原因がつかめない。日増しにあおざめてゆき、かつての面影もないほどやつれてゆく娘を見かねて問いただす和尚夫婦に娘は、どこの誰ともわからない美青年が毎夜訪れることを告げる。一計を案じた和尚夫婦は「相手に気づかれないよう、糸を通した針を青年の着物に刺しておき、その糸を手操って青年の所在を突き止めよう」と娘を諭す。いつものように現れて帰って行った青年。一睡もせずに明けてしまった翌朝、和尚夫婦は糸を頼り樹林をたどる。付けられた糸は深い樹林に囲まれた沼の辺りに続く。
そして夫婦は、岸辺の草むらの中に脇腹に針の刺されて冷たくなっている一匹のガマガエルを発見する。あまりの事にびっくり仰天、気を失った夫婦であったが起きてみるとそこには蟇の死体はなかった。気を取り直した夫婦は夜毎通い詰めた美青年は、実はこの沼の主である大蟇の化身であったことを告げ、あきらめるよう諭す。やがて容色を取り戻した娘は過ぎし日よりもさらに美しくなり良家に嫁いだ。

ガマの名のついた沼は、畑の鴨田山の麓と八幡平の2箇所にある。

赤沼伝説

その昔、寄木畑に魚鳥の捕獲を無常の楽しみにする畑浅左衛門という風流人がいた。ある日鴨獲りに山中を跋渉するうちに、老木が鬱蒼と茂り昼なお暗い中にも周囲の蒼然を映した湖水にたどり着いた。見ると波間に鴨らしい獲物がついた。すわっと弓を満月のごとく引き、狙いを定めて一矢を放たんとした刹那、獲物と思いしものが一瞬のうちに大波に変わり、浅左衛門めがけて襲いかかった。動転した浅左衛門は顔面蒼白になり、全身を震わせて逃げたが魔の波の追及甚だ速く、万理島の長根辺りまで逃げたがとうとう力尽きてひれ伏した。両手をあわせて「今後はこの沼で鴨獲りはしません。また、何人にも獲らせぬようにしますのでお帰りを・・・・」と頼むと、不思議なことに波は音を立てて引いたという。周囲の老木や四季の移ろいを静かに映している赤沼は、この魔の波の思いを永遠に秘めているのかもしれない。

八口大明神

松尾中学校と米内の中間あたりの後藤川沿いに、わずかばかりの木立と朽ちかけた鳥居、八口大明神と刻した碑がある。 その昔この地は老杉が鬱蒼と茂り四季不変の森厳を呈していた。昼なお暗い中に祠があって幽玄の趣きを添え、神気みなぎり粛殺の気人に迫るものがあった。祠を尋ねる山伏もあり、日差しを避けて祈祷したものだという。    ある月夜の晩、谷地中の山伏が訳あってお篭もりをしたが涼風が深窓を打ち稟列の気が身に染みるような真夜中になり、突然辺りの静寂さを破って万雷の音が轟然と響き渡った。眠気も醒めて堂外に出てみれば、一丈余りもある髪を振り乱した女が薄薔薇色の頬に白粉をこってりと塗った艶姿に妖艶な眼差しをキラキラさせて「御前は妾の住家を盗む気か」という。驚いた山伏は「我にそのような悪気はありません。なにとぞお許しを」と両手を合わせると、「それなら早く立ち去れ」といって忽然と消えたという。今は水田が開け水路が改良され、村道も通って特に目を引く場所でもないが少しばかりの木立と碑、朽ちかけた鳥居がわずかに昔の面影を残す。     ちなみに、通称八口とよばれるこのあたりは小字名(下谷地)から谷地の口つまり湿地の始まり(終わり)ともとれるし、治川である後藤川の合流・分水地点であることから、八つ(多く)の取り入れ口の意味で堰の分水地ともとれる。また、八坂神社や賽の神の存在から八又(岐)の大蛇伝説にまつわるもんで水神を祀ったととれなくもない。

藤七温泉伝説

その昔 藤七という木こりがモッコ岳の辺りで道に迷い、夜明けを待たなければならない羽目になった。夜のとばりと共に濃い霧に包まれ、鼻をつままれても分らないほどの夜であったが、どうしたことか夜半になって十五夜を4日も過ぎたとは思えぬほどの美しい月夜となった。日中の眺めとはまた違うの、夢の国のような美しさについうとうとしてしまった。と、突然の騒がしさでうたた寝から醒めた藤七が目にしたのは、川辺で歌や踊りに興ずる鬼の集団であった。夜明け間近、騒ぎがピタリと止み皆が引き揚げたがそのうちの一匹の青鬼が怪我でもしたのか仲間の助けを借りても動けずに置き去りにされたらしい。が、程なく二匹の赤鬼が現れると怪我をした鬼を川の淀みにざんぶと入れては引き上げ、入れては引き上げした。5度6度と繰り返すうちになんと青鬼は元気になり一人歩きができるようになり、やがて仲間と共に立ち去った。夢見心地の藤七が川まで行って見ると、その川はすぐそばで湧きだした温泉であった。以来その湯は「藤七の湯」といい、地名も藤七と言われるようになったと伝えられる。

松川温泉の由来

今から約250年前、紫波郡に住む高橋一中という医者が松尾村に転入してきて居を構えた。これより先、後冷泉天皇の康平5年(1062)後三年の役で安倍の貞任が滅びるや、その家臣の一人伊藤某というものが逃れて松川をさかのぼり山中深く潜み隠れていたが、衣食に困りだして仕方なく再び松川を下り田頭村の平笠に流れ住むようになった。 この伊藤某の末裔に西念という人がいて祖先に倣って代々武芸をたしなんでいたが、寄木の高橋一中の養子となって地域の人たちに剣道を伝えたといわれる。西念はまた探検が好きで、百十四代中御門天皇の享保5年(1720)んころ松川温泉を発見したといわれる。ししかし、その後20年余りも放置されていたようだ。西念の子、与次郎の願い出が聞き届けられ温泉湯治場として始めて開かれたのが桜町天皇の御代の寛保3年(1743)8月6日とされている。
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